五十嵐隆さんは失ってはならないものをすべて失ってきました。振り落としてきてしまった。長年の親友であり、憩いでさえあったベーシストを首にしたのをはじめとして、その後も多くの友情を犠牲にしてきました。彼は決してそれらを捨てるべきではなかった。何があっても。syrup16gの事務所の方針は『シロップをブランキージェットシティの再来』として育て上げることでした。そのためには事務所の好みの屈強なベースが必要で佐藤は邪魔だったのかもしれない。しかしブランキーのような音楽性が、はたして五十嵐と相性のいいものだったのでしょうか。わたしにはとてもそうは思えません。かつての盟友BUMP OF CHICKENの所属事務所の方針はkeycrewの方針とは真逆でした。本人達の意思やし好、何よりも友情を尊重してくれたのです。少なくとも、『腰が悪いから』『下手だから』といった理由で親友同士であるメンバーの一人を解雇したりはしませんでした。keycrewという事務所の実態は分かりません。ただし、シロップをインディー時代から支えてきたスタッフが『二度とあの事務所にはかかわりたくない』と言い残したこと。これは確かな事実です。」
 
 

インディーズ時代のsyrup16g(シロップ16グラム)とごく親しい関係者の発言要旨である。この内容は極秘ルートで著者のもとに届けられた。以降はなるべく客観的な事実に沿って事件を追ってみたいと思う。
事件とは2000年代のロックシーンで起きたいかんともしがたい疑惑であり、不快感どころか全身が総毛だつほど醜悪な珍事のことである。私が音楽ライターの仕事をしてきたこの数年で、ここまで不可解な感情と義憤に駆られたことはなかったしこれからもきっとないだろう。若輩ジャーナリストではあるが私の筆の及ぶ限り真実を明らかにしたいと思う。syrup16gの武道館が、歴史が終わろうとしている今こそ。




syrup16gは当初いくつかのメジャーレーベルから誘いを受けていた。が、なぜかことごとくうまくいかず、結局keycrewという小さな事務所に落ち着いた。keycrew社長熊谷昭(くまがいあきら)が2002年頃コロムビア内につくったレーベル『REBELS』その傘下、関連バンドとしてsyrup16gの他には古明地洋哉、前園直樹、tobaccojuice(タバコジュース)などの名前があった。後にタカハシコウキによるperidotsペリドッツ)と、元number girlナンバーガール)のアヒトイナザワ率いるVOLA&OLIENTAL MACHINE(ボラアンドオリエンタルマシーン)の名前が加わった。keycrew熊谷昭は当初、雑誌インタビューで「マイナーな音楽性でも素晴らしいバンドならそれに見合った活動ができる場所を提供したい。彼らの意思や才能を尊重したい。」という趣旨のある種、理想論を語っていた。様々な噂のあったkeycrewだが、その記事を読んで著者も当時は熊谷に好感を持ったことを記憶している。

しかしだ。
その後二人のソロシンガーはうやむやのまま数年で関係を絶ちtobaccojuiceはオリジナルメンバーだったベースが脱退、その後新ベーシストを迎え活動し出したが、2006年頃から自身のblogで事務所の方針に不満を述べだしそのまま離反した。VOLA&OLIENTAL MACHINEも2007年突如事務所を出た。その後myspaceにて「いろいろいろいろありまして、これからは独立して活動します」という内容の意味深なコメントを発表した。syrup16g解散が決まった今、keycrew所属アーティストはperidotsのみであり、peridotsもアレンジを酷評された2006年発売のミニアルバムはまったく売れず東芝EMIを解雇された。(現在はsyrup16gとともに事務所のコネのあるユニバーサルへ移籍、その後syrup16gもアレンジを酷評されるアルバムを製作することになる)
ここまで矢継ぎ早に所属ミュージシャンが離れていく、あるいは凋落していく事務所は稀有と言えるだろう。当然レーベルREBELSはひっそり閉鎖されていたことも付け加えておく。





 keycrew熊谷昭はUKPROJECT内の代沢レーベルとコネクションが強かった。その縁で2005年ごろから同レーベルのバンドをプロデュースし出した。熊谷は自身のblogでまずPOP CHOCOLAT(ポップショコラ)というガールズバンドのレコーディング風景を描写した。その中で「メンバーの一人が熱出して倒れた」と記すものの彼女の身体を気遣う記述は一切なかった。同事務所のperidotsのメンバーとともに公私ともに仲良しであることをネット上でほのめかし自身のblog上で「アルバムの出来がいいのは自分の手柄」と言う趣旨の発言を行った。代沢レーベルの遠藤幸一はそれに呼応するかのようにPOP CHOCOLATのメンバーに上京を勧めた。自身のblog上で「今がんばればきっと売れるから何が何でもがんばれ」という趣旨の発言を行った。以前は「力を抜いて無理しないで」という趣旨の文章を書いてファンに親しまれていた男であった。
しかし周知のようにPOP CHOCOLATはまったく売れなかった。その頃keycrew周囲の人々からPOP CHOCOLATのベーシストになんらかの教唆があリ、彼女はグループを脱退したことも謎の一つとして言及すべきだろう。


次にkeycrew熊谷昭は代沢レーベルに移籍したLOSTINTIME(ロストインタイム)のプロデュースを行った。当時LOSTINTIMEは東京では1000〜2000人規模の会場でライブを行えるだけの知名度があった。しかしkeycrew熊谷昭のプロデュースをへて、現在は東京でさえ200人クラスの会場が埋まらないバンドへ急変貌した。この頃から若者のカリスマとして支持を受けていたベースボーカルの言動や行いに変化が起き出したのだ。「歌に専念したいからベースを辞めたい」という理由でkeycrew熊谷昭のコネから新ベーシストが加入。それなのになぜかギターが脱退し、ボーカルはギターを弾き出した。keycrew熊谷昭がプロデュースしたアルバムは「至上最高傑作」と公式ホームページ上にうたわれたが、売り上げもライブ動員も悪化の一途をたどった。友情や信頼関係を最も大切にしていたはずのバンドが意味不明の理由でメンバーを解雇したのだから当然の帰結と言えるだろう。





賢明な読者諸氏にはもうお分かりであろう。
keycrew熊谷昭が関わるバンドの多くは何らかの形でオリジナルメンバーのベースが脱退し、事務所ゆかりのベーシストが加入するという事実を。そしてライブ活動から宣伝、交友関係に至るまで有形無形、様々な制限がかけられる。それぞれ、「君はフィッシュマンズの再来、君は和製ルーリードだ、君は闇のミスチル(笑)、そろそろ可愛い女の子が欲しいな。」とそれぞれkeycrew熊谷昭のエゴに従った役割が与えられた。ミュージシャンとして表舞台に立てなかった彼が所属アーティストを使って自らの夢を叶えようとした。そんな空想もまるきり下種の勘ぐりというわけでもないのではないだろうか。


ART-SCHOOL(アートスクール)の木下理樹はこうもらしたと言う。
「五十嵐君をライブに誘うのも、飲みに誘うのも事務所の許可がいるんだよねー」もちろん誇張や皮肉であろう。しかしそういった様々な強制、押し付けがあってもブレイクできれば必要悪と言えるかもしれない。しかしこの記事で言及したkeycrew熊谷昭がかかわったアーティストはほとんどが売れていない。その大半が事務所を離反した。不確かなことの多いこの世界で、これだけは確かな事実である。





syrup16gの話に戻ろう。
2004年、渾身の新作アルバムがオリコン20位以下という結果に終わったsyrup16gは活動方針の転換を余儀なくされた。ボーカル五十嵐の心情も無視できないが、ここでは事務所経営、いわゆる「お金」の問題に論点を絞らせていただこう。いつからかはわからないが、ある時点からkeycrew熊谷昭を悩ませていたのは金策だっただろう。事務所が宣伝費すらないような経営難に陥っていたのか、ネットの匿名掲示板を利用した宣伝活動を行っていたふしさえある。時を同じくして、ネット上で不気味な事件が起き始めた。syrup16gに関連して、なりすましによる誹謗中傷が頻発し、その一方でkeycrew熊谷昭を過剰に賛美する内容が並列された。

その後、syrup16gのリリースは途絶え、事務所の他バンドを前座にしたライブを繰り返すことになった。syrup16gのメンバーであるドラムス中畑はデビュー前のperidotsの話題づくりのためライブに参加した。その後、中畑はVOLA&OLIENTAL MACHINEに加入した。keycrewで唯一ネームバリューのあるバンドだったsyrup16gはさんざん宣伝に利用されることになったのだ。そして明らかに資金稼ぎのためのベストアルバムが2枚組ではなく2枚別売りで発売され、解散を匂わせるタイトルのライブを繰り返した後ラストアルバムと『syrup16g武道館ライブ』が発表された。


弱者の声を代弁するはずだったロックンロールはいつしか商業主義に染まっていた。

それは決して五十嵐隆独りの罪ではない。